2015/09/10(木)
1924年、橋本関雪が静かに進めていた構想が新聞紙上に発表されました。「白河村荘」と名付けられた、庭園美術館の計画は画伯の画業の粋と名高いコレクションの内容から、高い期待を持って進められていました。しかし、中々財団法人化の認可が下りることはなく、計画の途上で関雪がこの世を去りコレクションの大半は国の管理に委ねられることとなりました。その後終戦を迎え、進駐軍による接収を受けた白沙村荘でしたが幸いにも、大きな変更は行われず往時の姿のまま橋本家に返還されます。
そして1967年に関雪の孫、橋本歸一が現在の基板となる財団法人、登録博物館の手続きを終え、白沙村荘 橋本関雪記念館として一般公開を始めました。当時、橋本家にはスケッチや画稿などの作画資料。そしてギリシアやペルシアなどの陶器、中国の書画などが遺されるのみでした。今は評価の高いそれらの美術品も、その時期には注目されることもなく低い評価を受けていました。その間にも歸一は、接収時に傷んだ庭園と建物の整備を続けながら、当時橋本関雪が依頼を受け描いた作品の買戻しを定期的に行い続けていました。
開館当時は橋本関雪の手による作品はゼロであったといいます。一番最初に収蔵された作品は「緋桃白鵞」今も橋本関雪展の開催時には必ず登場する、色鮮やかな花鳥画です。
そうして時間は過ぎ、2014年。最初の構想発表より90年が過ぎていました。庭園と建物の整備も大きく進み、次なる事業として白沙村荘における新たな美術館の計画が再び興りました。橋本関雪の遺志による、彼の画業とコレクション、そして京都画壇を含む近現代の美術を紹介する京都の一拠点として白沙村荘 橋本関雪記念館MUSEUMが開館しました。
開館から1年の間、皆様からの温かい応援や来館者の方の嬉しいお言葉により励んで参りました。何分個人で行なっている文化事業なので、至らない点や不十分なところも多くあるかとは思いますが、橋本関雪や先代 橋本歸一がそうして来たように、これからもまた旧い文化や建物・庭園などを大事に想いつつ新しい文化の発展に尽力を致したいと思います。
新旧、東西問わず「関雪ならば」という審美眼により、様々な作家の作品を皆様にご紹介できる。そんな美術館を目指しております。これからも皆様のご理解とご協力を賜りますよう、何とぞよろしくお願い申し上げます。
白沙村荘 橋本関雪記念館